出雲の「食の杜」探訪記



ヤマタノオロチ伝説の舞台,奥出雲に開けた木次町――。1960年代から一貫して有機農業に取り組んできたことで知られる。97年にはスローフードのシンボル農場として『食の杜」を開設。ワイン、有機野菜・果物、豆腐、パンなどを作る同志が集い、「健康な命の源」としての「食」作りに取り組んでいる

本物のワインを
 出雲市から中国山脈に向けて車で小一時間。木次町は宍道湖に流れ込む清流・斐伊川の中流域に位置する。(04年11月に合併、現・出雲市)。ヤマタノオロチ伝説に表される出雲神話の舞台となったこの地に、スローフードのシンボル農場「食の杜」はある。
食の杜には、農業や食品工房など6つの事業者が入植。その”応接間”が、「奥出雲葡萄園」のワイナリーである。白い壁が印象的な瀟酒な建物には、ワイン工房、樽貯蔵室、レストランアドを併設。訪問客が、ワインや食事を楽しみながら静かな時を過ごしている。
奥出雲葡萄園の年間出荷量は3万~4万本。国内でもかなり小規模だ。ワイナリー長の安部紀夫さんは「猫の額ほどのワイナリー」と笑うが、それは原料にこだわる同社のポリシーでもある。
原料として使用するのは、食の杜の自社農園を中心に低農薬・有機栽培で丹精込めて育てた葡萄のみ。大量生産による規模拡大ではなく、質の追求をモットーとしている。「輸入葡萄でも国内で醸造すれば”国内ワイン”。農薬漬けでも添加物さえ使わなければ”無添加ワイン”。そういうワインではなく、自然に逆らわず、安心して飲める”本物のワイン”をつくりたい。食の杜には、こうした”理想”を共有する仲間が集まっているんです」と阿部さんは話す。

健康な命の源
 食の杜の理想は、一朝一夕に生まれたものではない。背景には、木次町で約半世紀にわたり取り組まれてきた有機農業の歴史がある。その象徴的な存在が、木次乳業相談役の佐藤忠吉さんである。
「その頃は、私たちも近代農業の尖兵でした。」佐藤さんが、そう振り返るのは1950年代のこと。それまで地域農家の主な副業であった養蚕、炭焼きの需要が激減したことを受けて、佐藤さんたちは酪農に転換した。当初は、牧草を効率よく採るために化学肥料や農薬を使っていたという。
60年ごろに異変は起こった。牛の乳房炎、繁殖障害、起立不能などが多発。水田にはドジョウの死骸が浮いた。「このまま農薬を使っていたら、とんでもないことになる。」佐藤さんは仲間とともに、近代農業から伝統農法への回帰を決意。牛への飼料を山野で採れる自然草中心に切り替えたほか、水田での無農薬栽培の試行も開始した。以来、一貫して「健康な命の源」としての「食」を追求してきた。
「変わり者と笑われた」というが、粘り強い議論と実践が地域を動かしていく。72年には「木次有機農業研究会」が発足するなど、その輪は徐々に広がていった。

食育の先駆け
 その核となったのが、佐藤さんが創業した木次乳業である。78年に、日本で始めてパスチャライズ牛乳(低温殺菌牛乳)の流通化を成功させたことで知られる。
大量生産される牛乳は、保存性を高めるために100度を超える超高温で殺菌するが、牛乳中の栄養素も変性させてしまう。そこで、低温殺菌で有害菌のみを除去する製法により、自然に近い牛乳を作り出した。各地の消費者グループに支持され、木次乳業は独自の販路を形成していくことになる。
その後も、パスチャライズ牛乳を原料とするチーズなどを開発。高い評価を得るとともに、80年に6億円だった売り上げを、04年には15億円にまで伸ばしている。
木次町もこうした動きを支援してきた。60年代には、佐藤さんたちの訴えを受け、日本で始めて松くい虫の共同防除を中止。木次有機農業研究会の発足後は、食品加工施設、推肥センターを設置するなど生産体制の整備を進めてきた。
94年から始まった「学校給食野菜生産グループ」の取り組みも注目される。発案したのは田中豊繁町長(現・雲南市顧問)。地域ごとの農家グループがつくる有機・低農薬野菜を学校給食に活用するもので、「食育」の先駆けとなった。
こうして、「点から面へ」と広がっていった木次町の有機農業ーー。「シンボルとなるような理想の農場をつくりたい」という関係者の思いから誕生したのが食の杜である。

ゆるやかな共同体
 食の杜は97年にオープン。「理想の農場」をめざして奔走する人々の姿に、「それならば」と田中町長が動いた。町が事業主体となり農場を整備し、公募・選定された事業者が買い受けた。現在奥出雲葡萄園のほか、○有気宇野菜を作る「室山農園」・○無農薬による葡萄栽培に取り組む「大石葡萄園」・○地域産品を全国に販売する「風土プラン」・○国産丸大豆と天然塩のにがりを原料とする「豆腐工房しろうさぎ」・○国産小麦粉、木次牛乳などを原料とする「杜のパン屋」が入植している。
奥出雲葡萄園が国産ワインコンクールで銀賞を受賞したほか、「しろうさぎ」では毎日600丁の豆腐を販売、「杜のパン屋」も目標を上回る1日5万円を売り上げるなど、それぞれ自立的に経営基盤を築いてきた。
その上で目指すのは、共同理念に基づいて連携する「ゆるやかな共同体」。奥出雲葡萄園では、その結晶を味わうことができる。杜のパン屋のパンに木次乳業のチーズがのるピザトースト、室山農園の野菜でつくるさらだなど、「ここにしかないメニュー」が並ぶ。
奥出雲葡萄園が毎年開催する「シャルドネ収穫祭」などのイベントも全事業者が協力して盛り上げる。「大型バスはお断り。共感してくれる小グループに来て欲しい」という方針のもと、松江や出雲など近隣都市を中心に、ファンを着実に増やしている。
「有機・低農薬へのこだわりと経営の両立に悩む毎日」と阿部さんは漏らすが、食の杜の潜在力への信頼は揺るがない。次の一手として、地域産品を販売する「土曜市」の企画を進めるほか、室山農園が移築した「芽葦の家」の宿泊機能が向上すれば、グリーンツーリズムの可能性も広がるだろう。
行政も期待を寄せている。「木次の農業を雲南市の標準にしなければ。差別化を図る以外に生きる道は無い。食の杜の灯を大事にしたい」と雲南市産業振興部長・細木さんは力を込める。

いのちを養う「食」をつくる。
佐藤忠吉さんたちが鍛え上げてきた思想は、食の安全が危うい現代に重い問いを投げかけている。そして、その後継者たちは、地域の未来を一歩ずづ切り拓いている。