苦味の科学 


苦味は本来毒物のシグナル
1916年ドイツの心理学者であるヘニングは、世界のどの国の人々でも感じられる味覚として、甘味、塩味、酸味、苦味の四基本味説を提唱した。
 日本では、1908年に池田菊苗が、東京帝国大学において4基本味のほかに「うま味」を加えて五基本味にした。これが生理学的定義に基づく味覚の五原味である。
漢方では、酸・苦・甘・辛・鹹の五味が基本となっているが、「辛味」は本来味覚ではなく触覚に近い感覚である。「渋味」「冷味」「刺激味」も同様、触覚として扱われている。
苦味は本来毒物である可能性を示唆するシグナルでもある。そのため苦味に対する拒否反応は毒性化合物の摂取を避けるための生体にとって有益な反応だとされている。
この毒物のシグナルを敏感に感じられるように、ヒトの舌にある苦味を感じるセンサー(受容体)は、なんと25種類。基本味の中でもずば抜けて多い。ちなみにこれと比較すると、塩味、酸味は2種類、甘味は1種類、うま味は3種類しかない。多くのセンサーを駆使することによって苦味成分に多様に対応し、毒物を体内に入れないようにするため反応しているのだ。
 さらに苦味は濃度が非常に薄くとも感知できる。甘味の1000分の1の濃度でも感じ取れる。
 ヒト以外に苦いものを好んで食べる動物は少なく、ヒトでも赤ちゃんや幼児は苦味を嫌う。ところが、苦味は成長とともに繰り返し経験することによっておいしく感じられるようになる。成人するころになると、ビールや山菜、ダークチョコを好むようになるのは、味覚が発達してから後のことで、これが苦みのある食材が「大人の味」と言われるゆえんであろう。

苦味が生体にもたらす効用
苦味とは何か?ほかの味とはちょっと違っているようだ。苦味の受容体は舌の上だけにあるのではなく、鼻の中や肺にも見つかっている。ヒトは舌で苦味を感じるとその苦味物質を吐き出す。鼻にある受容体が苦味をキャッチするとその原因物質(細菌)をくしゃみや鼻水などで排除する。
肺に吸い込まれた病原菌や刺激物質は、肺の内面を覆う上皮細胞の表面の繊毛がむち打ち運動をおこして、喉の方に追い出す。この時、肺の中にある苦味受容体(T2R)が繊毛のむち打ち運動を増長するのだ。
このように苦味受容体は生体を外敵から守るため複雑な働きをしている。

苦味のセンサーである苦味受容体(T2R)は多種類あり、それはヒトが長い進化の中で獲得してきたものだ。苦味受容体は細菌が体内に侵入してきたときに防御反応を誘発し、生体を守るための驚くべき重要な働きをしている。

苦味が誘導する3種の生体防御システム
 苦味受容体(T2R)は細菌に対して3種類の防御反応を誘発する。
➀肺での防御反応
 肺にすいこまれた病原菌や刺激物質は、上皮細胞の上にあるねばねばした粘液に捕らえられる。すると、細胞表面の小さな繊毛が同期して、1秒間に8~15回むち打ち運動をしてそれをのどに向けて押し出す。押し出された刺激物質は、飲み込まれて消化管に送られるか体外に吐き出される。
アイオワ大学の研究チームは、T2Rが苦味物質によって刺激されると、肺上皮細胞の繊毛運動が早くなることを見出した。この発見は、害を及ぼす可能性のある吸引物質(口で苦いと感じられるもの)を気道から排除するのにT2Rが寄与していることを示唆している。鼻でも同様の防御反応が誘発される。
➁苦味受容体が細胞に指示して殺菌作用のある一酸化炭素を放出させる
グラム陰性菌が鼻に感染するとアシル化ホモセリンラクトン(AHL)という化学物質を放出する。

このAHLは鼻の上の上皮細胞の繊毛に存在するT2R38と呼ばれる苦味受容体(25種類ある苦味受容体のうちの一種)によって検知される。

細胞は一酸化炭素ガスを放出する

このガスが細菌を殺す

(用語の説明):一般に細菌は「グラム陰性菌」「グラム陽性菌」「マイコプラズマ」の3種類に大別できます。ヒトの病原性細菌の大部分はグラム陰性菌です。

➂苦味受容体が別の細胞にシグナルを送りディフェンシンという抗菌たんぱく質を放出させる
感染性細菌が出す苦味物質が苦味受容体(T2R)に接触する

細胞はカルシウムを放出する

カルシウムが合図となって周辺の細胞がディフェンシンというたんぱく質を作り出し放出する

ディフェンシンは細菌を傷つけて殺す

さらに最近の研究によると、苦味受容体は鼻や肺などの呼吸器系だけでなく、体のあちこちに存在し、免疫機能を果たしていることが分かってきた。その例として2014年に明らかになった報告では、尿路の化学感覚細胞が病原性大腸菌に出会うと、T2Rを使って膀胱を刺激して排尿を促す。生体が細菌を尿とともに洗い流して膀胱感染症を予防するためだと思われる。

苦味受容体による細菌からの防御システムの特徴
大きな違いはその反応時間である。自然免疫の反応は数時間かかるが、苦味受容体は数秒から数分で反応する。苦味受容体は一種の “臨戦態勢” にあって、即座に反応を起こすことで、感染初期において最も重要な防御を担っているのかもしれない。他の免疫受容体(自然免疫、獲得免疫にかかわる受容体)は感染が長期化した場合に重要になるのだろう。最初の免疫反応では不十分だった場合に、免疫軍を召集するのだ。まさに苦味受容体による防御反応は第2の自然免疫であり、生体を守るために最初に反応する最前線の免疫系なのだ。

苦味受容体の多様性
苦味受容体の特徴として強調されているのはその遺伝的な多様性にある。25種類あるT2R苦味受容体のほとんどに検知能が異なる遺伝的変異体があるため苦味物質に対する感受性は人によって異なる。
苦味物質に対して感受性の高い人は、グラム陰性菌による鼻の感染症にかかりにくいことが分かっている。

苦味についていろいろ考察してみると、生体にとっての苦味の重要性に驚かされる。日常口にする食べ物や飲み物の中でも苦味のあるものがたくさんあるが、危険ではない程度の苦味、すなわち「安全な苦味」を口にすることで、消化器系や呼吸器系の苦味受容体を活性化させ、生体は外敵(病原菌や刺激物質)から身を守っている。苦味受容体が「第2の自然免疫のセンサー」として働いていることを知ると、コーヒー・緑茶・山菜など、ヒトが自然界の中から取り入れる食材に苦味があることは実に理にかなっているとしか思えない。
現代人の食の好みは、より甘く、より油が多く、より柔らかくという方向にすすんでおり、野菜や果物のなどの食材の苦味はできるだけ排除しようとするための品種改良がおこなわれている。人間の浅知恵で、食品の中から完全に苦味を抜き去ってしまうと、人の体の生体防御機構にもマイナス要因がもたらされる危険性があることを忘れてはいけない。